[PR]当たる!無料占いで仕事鑑定:大人気!無料占い『スピリチュアルの館』



日本サッカーの将来
2002年ワールドカップを応援するページです 




高校時代はGKをしていました。
サッカーを観るのがたまらなく好きです。
下手な解説を聞かないように、TVの音声を消して観戦するほどです。
いろいろ日本サッカーのことについて書いていきます。
皆様の貴重なご意見を
「掲示板」でお聞かせ下さい。m(_ _)m


VOL・18 「加茂ジャパンの迷走D」

クウェート戦。肝心な試合内容はJAPANが主導権を握っていた。
何年か前であれば中東アレルギーが出てしまって萎縮していたが
この日のJAPANもアジア王者の風格そのままにゲームを支配していた。

ただ支配するのと、試合を勝ちきるのとでは別問題だ。
当然引いて守ってくるクウェートに対しての対策は立てられているべき
問題だったのだ。そしてカウンターに対しての対策もそうだ・・・。

ただこの日のJAPANはあまりにも稚拙すぎた。
サイドからのクロスのロングボールを多用されたので
中盤からの守備が機能せずに2−0の敗戦。
今まで築き上げてきた自信がもろくも崩れることとなり
W杯の予選を翌年に控えた段階で一抹の不安がつきまとうことになった。


VOL・17 「加茂ジャパンの迷走C」

1996年12月 UAEの地で我がJAPANはディフェンディング・
チャンピオンとして第11回アジアカップに参加した。

先のメキシコ戦での快勝のあとパフォーマンスを維持して
ウルグアイ、ウズベキスタン、チュニジアを順当に下して
優勝候補の筆頭と目されていた。いざ大会が幕を開けると
初戦のシリア戦は先制を許したことと、その後に相手が
ベッタリ引いて守ったことで苦戦を余儀なくされたが
最終的には逆転勝。つづくウズベキスタン、中国もあっさり退けて
ますますその評価は高まっていったが、多くのファンは内容に
不安を隠せないでいた。

それは加茂ジャパンの生命線の「ゾーンプレス」が引いて守られた
ときに一向に機能しないことであった。
これは肝心な問題であった。真剣勝負になれば相手も研究してくる。
その時の対応策が全く学習されていなかったのだ・・。
ある意味ホームゲームが主体であった強化が仇になったのだが
決勝トーナメントに入っての対クウェート戦でこれが現実となってしまった・・・。


VOL・16 「アトランタでの収穫」

結局、五輪代表チームは決勝トーナメントには進出は
出来なかったのだが今後に向けて収穫はいくつもあった大会であったと思う。

1)
最終戦の対ハンガリー戦で見せたロスタイムに入ってからの逆転劇。
いままで逆の立場でやられ続けてきたことを土壇場で東欧の強豪に
見せ付けたことは、次世代に語り続けることができると思う。

2)日本DF陣の頑張り
初戦のブラジル戦は戦術的な面で守備的であったが
その奮闘ぶりは拍手を送りたい。そして2戦目のナイジェリア戦は
身体で差があったものの守備組織をズタズタにされてはおらず
逆にDFラインのプレスのかけ方、そして球出しなどの戦術は
一歩先を行っていた。

ただナイジェリア戦で2点目を許したハンドのファール。
そしてハンガリー戦での無駄な失点は晴れやかな国際舞台で
経験できた素晴らしいお土産になったのも事実であった。


VOL・15 「28年目の快挙」

1995年、オリンピック代表チームは見事にアジアの扉をこじ開けた。
実に28年の歳月を要したのだがJリーグの発展によりほとんどの選手達が
プロで編成されたチームは「史上最高」との冠を背負って多いに期待されていた。

が・・・悪く言えば前園(現東京V)のチームであった。当時の西野監督(現柏監督)
は守備重視の戦術であったために、前園に対する攻めの依存度が高く
おまけにアジア一次予選で活躍した小倉(現東京V)が最終予選を前に
負傷したことによってそれが明白になった。

その期待にこたえて前園は獅子奮迅の活躍を見せる。
最終予選の対サウジアラビア戦・・・この試合は恐ろしいほどハードな
ゲームだったが前園と城とのコンビネーションで2点を奪取!!。
あとはサウジの攻めを川口の好守とDF陣の踏ん張りで1点に
迎えてアトランタへの切符を手にしたのだ。

そして五輪本番では「マイアミの奇跡」と叫ばれた
対ブラジル戦の金星を高々と手にしたのであった。


VOL・14 「加茂ジャパンの迷走B」

ここで「ゾーンプレス」を簡単に説明しよう。
それは中盤の出来るだけ高い位置で意識的にプレスを
かけて、ボールを奪い攻撃の基点を作りフィニッシュまで
持ちこむと言う戦術で、集中力と持久力が要求される。

そしてその戦術がものの見事に炸裂した試合が
1996年5月に行われたキリンカップの対メキシコ戦。
2−0でリードを序盤早々にゆるしたものの
森島・名波という加茂によって中盤の攻撃的位置で
起用された選手が獅子奮迅の活躍を見せて同点に持ちこみ
逆転弾はフリーキックから相馬が老獪に決めたものだった。

Jリーグの過密日程の中でもパフォーマンスの維持と
コンディションの持続を証明できたことにより
JAPANの評価は不動のものとなった。そしてこの時期に
若い世代が快挙を成し遂げたことも忘れてはならない。
そう、23才以下の代表チームのオリンピックアジア予選の
突破である。


VOL・13 「加茂ジャパンの迷走A」

1995年6月・・・日本サッカー史上歴史に残る試合が
開かれた。場所はサッカーの本場、イングランド。
インターナショナルチャレンジと名打ったこの大会で
我がJAPANはイングランド、ブラジル、スェーデンと対戦した。

特にイングランドとの対戦はウェンブリーで行われ
井原のヘディングシュートで一時は同点に追いつき
後半も中盤あたりまで1−1の同スコアで進行する善戦ぶりだった。
また、スェーデンとは2−2のドローと、今後の活躍を
期待していいものだった。

この当たりはJリーグの発展とも重なり、一人また一人と
若手をチームに溶け込ませることに成功していた。
後に主力となる相馬、小村、山口、名波、森島などがその例である。

そして1995年秋の監督解任騒動はあったものの
1996年春に行われたキリンカップでその強さを証明することになった。


VOL・12 「加茂ジャパンの迷走@」

ファルカン解任の後、1994年に代表監督に就任したのは
前横浜フリューゲルス監督の加茂周氏。
日本リーグ時代の日産自動車では個人技主体のサッカーで。
そしてフリューゲルス時代は「ゾーンプレス」を掲げて
実績を残した人物である。

そして最初の指揮となったインターコンチネンタル杯(INサウジ)で
アルゼンチン、ナイジェリアとの対戦を前に
「守りを固める気はサラサラない。」との決意を語り
結果は惨敗したものの徐々にチーム作りを開始する。

香港で行われたダイナスティカップで優勝。
そしてホームで行われたキリンカップではスコットランド、エクアドルを
退けてカップを手にしたのだ。そして同時に特筆すべき点は徐々に
ドーハ組の主力選手のラモス、柱谷をはずしていった点であった。


VOL・11 「ファルカンの憂鬱」

オフト氏の辞任後・・・日本サッカー協会は「修羅場をくぐった人物」
と言う理由で元ブラジル代表監督であったロベルト=ファルカンを
日本代表の監督に抜擢した。彼はオフト時代の選手をベースに
名塚・名良橋・岩本・前園・遠藤・山口などの若手を積極的に
起用したが、戦略的な意味付けの意識が低くて評価はサッパリであった。

そして就任後、初めての真剣勝負の場である
広島;アジア大会において韓国に敗れて僅かな期間で解任された。

ファルカン氏には同情する部分が多々あった。
広島;アジア大会に対する準備の不足。そして何より
協会の姿勢が曖昧であったことだ。簡単に言えば今だ協会は
オフトに対する未練が残っており、オフトとファルカンを天秤に
かけていたのだ。信じられないことである・・・。

いずれにせよ、ファルカンの辞任後に「ゾーンプレス」をかかげて
加茂周氏が監督に就任するのだが、協会の代表監督に対する
評価の曖昧さはその後も直らずに迷走をつづけるのである。


VOL・10 「ドーハでの教訓、対イラク」

この試合は今から冷静に考えても日本の動きは完全に重かった。
砂漠での連戦がここにきて利いてきたのだと思う。ラモスなどは
気力だけで走り回っている様子であった。

しかし審判が日本に露骨に有利な判定(湾岸戦争の関係で
イラクが次回開催地のアメリカに乗りこむのを防ぐ意味があった
との噂もある。)を吹いたこともあり終始試合は日本ペースで進む。

そして問題の後半のロスタイムの場面になるのだが
いろいろな意見が出尽くされている。その数分前に投入された
武田がなぜ無理な態勢からセンタリングを上げたのか?
(これがクリアされて後のショートコーナーに繋がる。)
もう少しパス回しなどで時間稼ぎが出来なかったのか?

あくまでこれは結果論である。
ただ経験不足を露呈したのは間違い無かった。
そしてグランドに突っ伏すイレブンをTV画面を見ながら
私自身のサッカーの捉え方が間違っていたと認識した試合でもあった。
そう、韓国に勝ってW杯にいけるもんだ!と認識していたのだ。

明らかにイラクは韓国よりは近代的なチームであった。
それを的確な判断で指摘して、準備につなげる。
それを当時のスタッフで遂行できたかどうかは定かでない。
ただイラク側のほうが日本を研究していた。これは間違い無い。

そして総括になるが限られたメンバーでしか準備をしなかった
ツケが最後の場面で露呈した。戦術は叩きこめてアジアのトップに
入る実力を証明できたが、それだけでは世界の舞台には立てない
ことをカタールの砂漠の地で学習したのだ。
そしてそれはオフトの限界を示すものでもあり帰国後に
英雄扱いを受けるがそこはプロ・・。責任を取る形で辞任した。


VOL・9 「90年代:ドーハでの教訓、対韓国」

イラン戦の敗北によりW杯の出場のためには負けられなくなった
我がJAPANは北朝鮮をカズの活躍で3−0でものにする。
そしてこの試合から高木に変わって中山がトップの位置に入り
左サイドバッグの位置に勝矢が起用されて、
また右の上がり目のMFに長谷川を配置して
よりアグレッシブな態勢を敷いた。土壇場でギャンブルに出て成功したのだ。

そして迎えた因縁の対決:対韓国・・。
出場停止の森安に代わって起用された北澤の攻守にわたる
獅子奮迅の活躍。北朝鮮戦から見られたラモスの鬼気迫る守備。
そしてカズの勝負強さ・・そして完全な日本サッカーのシステムの
勝利であった。危ない場面は何回かあったが見事に統率された
守備体系が韓国を完封した!!。

いつの時代でも「韓国」という壁を越えられないでいた日本が
絶対絶命のピンチで宿敵を打ち砕いたのだ!!。

カズの当たりそこねのシュートが韓国ゴールに転がりこんだ後半14分。
私は勝利を確信した。それほどまでの内容だったのだ。
そして涙を流した。「これでW杯にいけるんだ・・」と。

そしてこの涙が大きな勘違いであったと痛感させられた
日本サッカー史上:最悪の悲劇が3日後に笛を吹かれた。


VOL・8 「90年代:ドーハでの教訓、対イラン」

94年アメリカW杯最終予選・・・。この一騎討ちを前に日本代表は痛恨の痛手を負う。
左サイドバッグの都並の左足の故障である。彼の特徴は粘りのある守備と
タッチライン沿いをドリブルでペナルティエリア付近まで持ちこんでの正確なクロスに
あった。そして何よりラモス、カズと組んだ左サイドのコンビネーションは日本の
生命線だったのだ。換わりに左サイドを担当したのはカズの実兄の泰年。

そして緒戦のサウジ戦を引き分けた後のイラン戦で弱点を攻められることになる。
緒戦で韓国に大敗していたイランは徹底的にわが陣の左を突いてきたのだ。
もともとイランという国は守備が巧くて、中東らしい嫌なサッカーをする国である。
それが緒戦に負けてどうしても勝利が必要な状況で日本にブローを繰り出していく。

そして前半43分に左サイドを突つかれたセンタリングを決められて先制点を許す。

先制点を奪われた日本は懸命に反撃をするが全章で記した通りに
有効な選手交代をすることができずに完敗を喫する。
後に「ドーハの悲劇」と叫ばれたが、この敗戦=勝ち点0が大いに影響したのだ。


VOL・7 「90年代:オフトとの出会いA」

就任からわずかの期間でチームの骨格を作り上げたオフトは
ダイナスティカップ(参加国:日本・韓国・中国・北朝鮮)でものの見事に優勝を成し遂げる。
井原・柱谷を中心とした屈強なDF陣。ラモスが仕切るダイヤモンド型のMF陣。
高木をターゲットにし、エースのカズ、スーパーサブの中山・・・。
徹底的に戦術を叩きこまれた曲者揃いの日本代表がついに東アジアの頂点に立ったのだ。
そして、勢いに乗ってサウジアラビアを破り、アジアカップ(広島)までも獲得する。

当時、その戦術はあまりにも徹底をされていたために(例えば、横パスは絶対厳禁)
大丈夫か?との識者の見解があったようだが見事に結果を
出した事によって、その外圧を封じ込めてしまった。

しかし、W杯予選までの期間が少ない為に、限られたメンバーでしか
チームを構成しなかった弊害が最後の最後で
日本を悲劇に突き落とすことになってしまう。


VOL・6 「90年代:オフトとの出会い@」

日本のサッカー界も幾多の辛辣をなめ、そして日本では当時、
珍しかったサッカーをすることで報酬をもらう”プロ”の選手(カズ、ラモス)を
新たに加えてさらに進化を遂げた。
しかし相変わらず、肝心な戦いの場では結果を手にすることができずにいた。

そして91年に念願のプロリーグの「Jリーグ」も誕生した。(開幕は2年後・・)

そして不足分野であった”戦術”を日本代表に植え付けるために
初の外国人監督(ハンス=オフト)が誕生したのだ。

彼の功績はまず日本に”戦術”という当時外国では常識であった
サッカーの重要要素を国民全体に浸透をさせた点にある。
「アイコンタクト」、「スリーライン」、「ディシプリン(規律)」
実に解りやすい言葉なのだが当時は新鮮に感じられた。
あのうるさ型のラモスでさえ結局はオフトに渋々ついていったことを
考えると、この男・・相当な頑固親父と推察ができる。


VOL・5  「80年代:飛躍への序章A」

とは言え80年代の代表チームも国際大会の高い壁を越えずにいた。
80年W杯予選(北朝鮮に敗退)、84年ロス五輪予選(タイに屈辱の大敗)など・・

そして迎えた85年のメキシコW杯アジア最終予選:対韓国戦・・。

この試合・・。以後の日本サッカーの隆盛を考えると
ターニングポイントになった一戦である。
結果はご存知の通り、H&Aともに1点差の負け。
韓国の勝負強さとパワー、闘争心、そして国民的注目度の違い
がまたも日本サッカーの船出を制したのだ。

そして、Kリーグ(韓国プロサッカーリーグ)の発足直後だったことも
あわせて、「このままでは韓国には永久に勝てない。
日本にもプロリーグを!!」との声無き声が沸きあがったのだ。


VOL・5  「80年代:飛躍への序章@」

68年のオリンピック銅メダル獲得により沸き起こったサッカーブーム
によって競技人口は着実に伸びていき、80年代に入るとそれらの世代が
諸外国から来日するプレーヤーやTVから放映される海外の試合を
見て様々な技術を磨いていった。

思い起こせば丁度この頃より外国チームを招聘してのキリンカップの開催。
欧州vs南米のクラブチャンピオンを決めるトヨタカップの開催と
生で本場のプレーを見れたことが以後の日本サッカーの向上に
少しでも貢献をしていると考えられる。


そして出現してきたプレーヤーが
風間・木村・金田・戸塚・都並・佐々木と言ったテクニックを
活かした選手で、従来の「高い・速い」の日本型の選手ではなかった。
そして特に注目したいのが戸塚・都並・佐々木は学校の部活からではなく
クラブチームで育った選手だったことだ・・・。


VOL・4  「70年代:暗黒の時代」

70年代に入り日本サッカー界を文字通り引っ張っていったのは
ヤンマー・日立・三菱などのいわゆる企業が抱えるスポーツクラブ的な
チームだったが、メキシコ五輪の銅メダルの獲得によってリーグとしての
発展は段階を踏んで進歩はしていたと言えるだろう。

ただ、前章に記した通り、外国チームとの強化試合と言えば、マレーシアで
開催される「ムルデカ大会」の参加があったが暑さと経験不足から惨敗続き・・。
そしてライバルの韓国との真剣勝負では何と2勝13敗5分け・・・。

これは明らかに企業のスポーツクラブ活動の延長線上から起因する
体力不足・甘えの構造・そして指導者の絶対的不足・研究心の欠如からくる
結果だと考えられる。この頃の日本のサッカーはテクニックは相当なものを
持っていたが「力」と「相対的経験」が絶対的に不足していたのである。

そしてそのことをごく限られた人間だけが指摘するのみで、「日本サッカー界」は
完全に胡座をかいた形で時間を浪費していったのである。


VOL・3  「クラマー氏の功績A」

そして彼は帰国に際して、何点かの提言を日本サッカー協会へ

残している。記憶は定かではないが、下記に挙げてみよう。

1)外国チームとの強化試合を多く組む。
2)施設整備(芝のグランドの増加する)。
3)指導者の育成(各年代にコーチを置く)。

つまり以上のことをしっかり継続していけば何年か後に世界レベル
に近づけるというのだ。しかし悲しいかなクラマー氏の提言を実行する
ことになるのは莫大な時間が経過したあとだった。この間に「サッカーブーム」
と言われるものが巻き起こるのだが、同時にこれが「暗黒の時代」の幕開け
となってしまったのである。


VOL・2  「クラマー氏の功績@」

サッカー好きな人達なら1度はこの人物の事を耳にしているはずだ。
東京オリンピック前に来日して、その後の68年メキシコ五輪銅メダル
獲得に多大な貢献をしたドイツ人の事である。

何年か前に彼の特集がTVで放映されていて、詳しい内容は忘れて
しまったけれどそのコーチ内容といえば確か「簡単に諦めるな!
集中力を切らすな!」と言ういささか精神面的なものが中心であった
ようだが、来日して間もなく剣道で使われる「残心」と言う日本人が
知らないような言葉を例にだしてのコーチングであったので、
現・日本サッカー協会会長の岡野氏(当時:コーチ)がインパクトが
強烈で心に残っていると語っている。すなわち彼は「日本文化」を
学ぼうとすることによって、わかりやすい言葉で当時の釜本・杉山・
小城・宮本・横山・松本などの主力選手のハートをつかんだんだと
考えられる。

この選手掌握法は後のオフト氏と共通する面があり大変興味深い。
韓国と違い日本は外国人監督を受け入れやすい民族なのかもしれない。


VOL・1  「はじめに」

93年のJリーグの発足以降、順調な右肩上がりで成長を遂げてきた
日本サッカー界。もちろん幾多の辛辣を舐めてここまで来たのだが
私個人としてはここで満足をするわけにもいかない。

サッカーが語られるときに「リアリズム」「確立論」「文化」等の
言葉がよく使われるが全くその通りであることは疑いの余地はない。
今の日本サッカーを取り巻く環境は「日本文化においてサッカーと
言うリアリズムを全面に受け入れ、また確立論的に評価ができる
ようになりつつある。」という状況だと言える。

無論、それは幾多の経験を積み重ねてこその話なのだが、ここ近年
はそうした経験ができるようになった。大変喜ばしい事だ。

次回以降、私の記憶は定かではないが65年?の「日本サッカーリーグ」
の発足と同時に降って沸いた「サッカーブーム」から68年メキシコ
オリンピックの銅メダル獲得のあたりを起点として、現在の日本代表
の成長の要因、また02年により上を目指すために何が必要かを
自分勝手に考えたいと思う。



HOME



[PR]子育てママさんへ:3年毎に15万円うけとれる保険?